chip of wood

そのとき街は0時を廻った

 その言葉を聞くのが怖くてずっと逃げ続けたのに、とうとう彼に捕まってしまった。そして、案の定、手渡されたのは「またね」のない「さようなら」 
 電車は動かなくなったわたしの心を終着駅まで運び続けた。駅員は告げる「この列車は車庫に入りますので引き続き御乗車にはなれません」
 続けられないのか。それはショックだ。とってもとってもショックだ。でも車庫には入りたくはない。車庫はきっと真っ暗だ。わたしは閉所恐怖症なのだ。誰かが手を握っててくれないと闇の中では一歩も動けない。
 だから、降りよう。降りて歩き出そう。とりあえず歩こう。暗闇の中でいつも手を握ってくれた彼はもういないからなるべく明るい道を歩こう。歩かないと、歩いて誰かの手をまた握らないと。
 階段へと向かう人々の中で立ち止まったままの女性が一人いる。彼氏を待っているのだろうか?
 思えばわたしは待つのが苦手だ。そして、何かを求めてばかりだ。彼氏ができるとすぐに調子に乗るし、自信が出てくるのか我儘になってしまう。終いには彼氏だけでなくあらゆる人を振り回すのだ。誰かを傷つけていたことに気がつく頃にはもう手遅れで、そしたら、今度はそのことからひたすら逃げ続ける。
 すれ違いざまにちらりと彼女を見てみる。すると彼女は微笑みかけるように腕時計の針を見つめていた。振り返ると彼女はすれ違った時とまだ同じまま、まるで大切な誰かを待つこの時間さえもを愛おしむように、まつ毛を伏せ時計の針を追い続けていた。
 「...ちくしょー」
 ため息のように声が漏れた。
 わたしは気がついた。彼女は間違いなく恋愛をしているのだ。そして、わたしは恋しかしたことがなかったのだ。彼女のあの笑顔、あれは愛だ。わたしには分かる。なぜならわたしはあんな笑顔をしたことがないとはっきりと言いきれるからだ。
 悔しくて悔しくてわたしは地面を踏みつけるように歩き出した。階段を一段飛ばしで登っていく。「また恋をしてやる。そして、愛してやる。次は恋愛をしてやるんだ」わたしは心の中で強く決意した
 そのとき


 心が震えて怖気づいた夜にはここで彼を待つ。すると不思議と優しい気持ちがどこからか湧いてきて、次第に行き交う人達の中に笑顔を探すようになる。その笑顔の先に誰が待っているのかを想像してわたしも笑顔になる。
 彼が罪を犯したあの日から、その人生が罪を償い続けるためだけのものになるなんてこと絶対にないんだってわたしは願っている。彼が自分を許して、いつか笑顔で帰ってこれる日が来ることを願ってる。
 確信を持てるほどわたしは世界を知っているわけではないし、自信が持てるほどわたしは強くないから、唯々、願っている。
 腕時計の針を見つめる。彼がくれたこの時計の時間は彼と同じ時間を刻んでいて、だから、この左手と彼の鼓動は繋がっているんだ。そんなこと、誰にも言ったことはないんだけど、そう、わたしは願っている。
 もう日付も変わろうとしている深夜。なのに女の子が一人、悠然と列車から降りてくる。ふわふわとカールした黒髪とスラリと長い手足。レースの白いワンピースに、フランスパンみたいにつま先がまるまった茶色い革靴。そして、小さな青い宝石が付いたシルバーのネックレス。物語の中から抜け出して来たような不思議な女の子だった。
 ホームに降り立つと彼女は電車を見送り、そして、そのくりっとした瞳を夜空へと向け、優しく微笑んだ。わたしもつられて空を仰ぐ。するとふいに、夜空に流れ星がまたたいて消えた。
 彼女は円を描くように綺麗に振り向くと、息を呑むわたしに頭を下げた。そして、わたしの目を見て綺麗に微笑みかけたあと悠然と歩き去っていった。その表情は、目を輝かせて宝石箱を開く少女のようだけど、生まれたばかりの愛しい我が子を見る母親のように優しくて、中学生か高校生くらいにしか見えない彼女がそんな表情をするものだから、なんだか可笑しくてわたしはくすりと笑ってしまった。
 「ありがとう」
 何故かわたしの口は独りでにそんな言葉をもらしていた
 そのとき


 電車から降りると涼しい風が私の足元を駆け抜けた。その中にある花の香りを便りに彼女を見つけ出す。彼女は今日も独り願い続けている。私はそのことを愛おしく思う。
 彼女が胸の奥でずっと綴り続けてきた宛名のない手紙。
 それは空を廻り今夜ここへと帰ってきた。
 
 今日と明日、昨日と今日。時の静寂にそれは訪れる。
 それを彼女に知らせたくて私はここにいる。
 夜空を見上げる。宇宙が広がる。
 愛を仰ぐ。
 そこには時間と空間を超えて廻り続ける光


 そのとき
 街は0時を廻った。




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太陽の休日 1

 わたしは雨が好きだったり、女の子なのに赤やピンクよりも青や緑が好きだったり、褒められるのが苦手だったり、優しいねと言われるのが嫌いだから、よく天邪鬼だと言われる。でも、わたしは自分が好きなものを素直に「好きだ」って、苦手なものは「苦手だ」って言ってるだけで、捻くれてなんていないって自分では思うんだ。
 雨の日はお気に入りのスニーカーをぐちゃっとさせるし、朝の電車はいつもよりもギューギューだし、母が買い物に行きたがらないせいで夕飯のおかずが寂しくなったりもするけれど、それでも、いつもと違う景色が、いつもと違う音があるから。わたしは雨が好きだ。
 わたしはみんなにも雨を好きになってほしい。だから今日は、わたしが雨を「好き」から「大好き」に変わった日のことを話そうと思う。


 その日は素敵なことが3つあったんだ。午後から雨が降りだした。それがまず一つ目。
 二つ目は放課後のブラスバンド部の練習の時のこと。いつものことだけど、みんなが思い思いに演奏するものだから、音楽室が無秩序な音で埋め尽くされ、わたしもホルンを吹くのに夢中で雨のことをすっかり忘れていた。だけど、合奏練習が始まる時間が近づくと、徐々に音が少なくなっていって、それに反比例するように雨の音を耳が拾い始めたんだ。そして、やがて雨音だけになってしまった。
 顧問の井内先生が指揮台の上に立ち、それを扇型に囲むようにわたしたちが並ぶ。先生は何も言わず生徒一人一人と目線を合わせるように左から右へ、そして、今度は右から左へとゆっくりと視線を動かす。そして、正面を向き一度頷き指揮棒を振り上げた―――次の瞬間、幾つもの新しい音が同時に生まれ大きな一つの波を作り出し雨音を流し去ってしまった。
 雨は静寂を教えてくれるけど、それをわたしたちに押し付けたりはしない。何かに夢中になっている時はひっそりと隠れていてくれる。そういうところがとても良い。その日のわたしたちの演奏ももちろん素晴らしかった。

 
 3つ目は家に帰る時のこと。雨足がだいぶ弱まっていたのでわたしは一駅手前で降りて歩いて帰ることにしたんだ。
 小雨の時、わたしは決まって傘は差さない。少し濡れるのが気持ち良いし、何より傘を持っていたら自由に歩き回れないし、視界も遮られてしまうから。
 隣の駅は住んでいる駅よりもずっと賑やかで雨なのにたくさんの人がいた。傘を差さずに平然と歩いているのはわたしだけだけど、それはいつものことだから気にしない。見上げれば、デパートやビルの明かりに照らされた雨がぱらぱらと降り注ぎ、アスファルトを見下ろせば信号機の赤、緑、街灯の白、車のテールランプのオレンジが雨に濡れた地面に反射してる。
 もうちょっと強い雨だと、水が跳ねて楽しいけれど、そうなると本当にびしょ濡れになってしまうので少し困る。でも気温が高くて、そのあと何も予定がなければ強い雨の中でも傘を差したくない。夏休みの夕立なんて最高だ。雨上がり、いつもはまとわりつくようで暑っ苦しい夕方の風が、濡れて冷えた体を包み込む優しい風に変わるから。その日は物悲しい秋雨。夏の雨は力強さを感じるけど、秋の雨はよく言うと優しい、悪く言うと弱っちい感じ。傘なんて差したら可哀想。
 賑やかな繁華街を抜けて、デパートの脇の小道へ入れば公園へと続く道だ。
 赤と青の上品な傘を差している人を見つけてちょっと羨ましく思う。母親に手を引かれる黄色い雨合羽を来た小さな男の子が可愛くて思わず微笑んでしまう。頭上に鞄を掲げて小走りで駅へと走っていくスーツ姿のお姉さんは、今朝、天気予報を確認しなかったうっかりさんだ。 わたしと同い年くらいの男女二人組が傘を差さずに笑顔で歩いている。彼らも雨が好きだ、なんてことはないのだろうな。きっと、雨が降っていても恋人と過ごす時間は楽しくて、楽しいから傘なんて差さなくて平気なのだ。女の子の方は左手にピンクの傘を持っている。もしかして寄り添うためにあえて差さないで歩いているのだろうか? それとも彼氏は傘を持ってなくて、それで自分も差していないのだろうか? 二人で一つの傘に入ればいいけど流石にそれは恥ずかしいからやらないのだろうか?
 雨の日は雨の日ゆえのあれこれがあるもので、わたしはそのあれこれを考えるのも好きなのだ。雨は外を歩くすべての人に降り注ぐけど、心底それに困っている人もいれば、わたしみたいにはしゃぐ人もいる。お百姓さんは日照りが続いたあと雨が降れば喜ぶだろうし、どこかでお祭りが行われているとしたら中止になって悲しいでいる人がいるだろう。この雨に生命を救われた人がいるかもしれないし、逆に命を雨に奪われることもあるかもしれない。もしかしたらこの雨がきっかけでどこかで恋が始まっているかもしれない。
 そして、わたしにとってこの日の雨は、大げさかもしれないけれど、素敵な世界への入り口だったんだ。

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少女と花を愛でる冒険

この世界の果ての果ての果ての果ての島には 虹色に光るそれは綺麗な花が咲くというから
僕はそんなものに興味なんて無いのだが 例の如く君が強引に僕の手を引くから
ペンと紙と地球儀とおもちゃの剣を持ったら 暗雲たる無計画な冒険へと出発だ
我侭でお嬢様で君は世間を知らないから どうにもこうにもすべてが不安だ

汽車に乗り北へと宛のない旅の始まりだ 雪山の山頂に咲く青い花があると聞いたら
是が非でも見たいなんて無茶を君が言うから 凍えるような北国で山登りをしているのだが
両手が悴んで性も根も尽きてしまった いい加減キツイわ限界なんだもうこっちは
ほらあの先に休めそうな洞窟があるじゃないか あそこでちょっと一休みふた休みしようじゃないか

珍しく素直に首を縦に振ると思ったら ただ単に洞窟を探検したいだけだったのか
おいおいランプの油がそろそろ尽きそうじゃないか あまり無茶はしない方がいいと僕としては思うのだが
なんと洞窟の最奥部には地底湖がお出ましだ ヒカリゴケに輝くそれはそれは幻想的な世界だ
くやしいが今回ばかりは認めざるをえないか 無茶苦茶だがこれはこれで悪くないもんだな

山頂で見つけた青い青い小さな花は 氷漬けに閉ざされ触れることも出来なかった
気がつけば夜明け間近太陽がお目覚めだ 光が氷を透き通り青い花に降り注ぐから
朝日に輝く気高さその美しさときたら 一瞬の奇跡幻言葉になんて出来なかった
心奪われ花に見とれる君の横顔と来たら それはそれは綺麗で僕は瞼にそっと焼き付けた




南の島に世界一大きな花があるというから 船に乗って大海原へ大航海の始まりだ
話は付けたって怪しい眼帯のそのおっさんは どう見たってあからさま海賊ってやつじゃないのか
身分を明かしたら乗せてくれたってあんた何いってんだ 完全に家の資産を狙われてるんじゃねぇのか 
柄の悪い奴らに囲まれ今度こそもうおしまいだ お嬢さまと出会ったことが僕の運の尽きだったんだ

大海賊のお宝が眠り大きな花が咲く島には 獰猛な動植物と迷路のような遺跡が
お宝をめぐり海賊のオールスターが勢揃いだ 終いには軍隊が来てテンヤワンヤの騒ぎだ
王の墓に眠る大きなダイヤモンドを手に取ったら 古代人の仕掛けた罠が発動して絶命のピンチだ
軍人も海賊も人食い花に食われてった おいこれが噂の世界で一番でかい花かよ

花をめぐる物語 世界中を駆け回り お嬢さまと僕と二人 冒険の日々は終わらない
気まぐれなお嬢さまと小心者の僕と 命をかけて花を愛でる単純なストーリー
真夏の夜に一夜だけ咲く幻想的で白い花 灼熱の砂漠に咲く小さなサボテンの花
マグマの火口で花開く燃えるように紅い花 湖の底に咲き乱れる水晶のように透き通る花

そのすべてを語るにはあまりにも時間が足りないので それは次に会った時のお楽しみということで
虹色の花は結局見つかったのかって? 見つかってないから今日もこうして旅を続けているわけで
お嬢さまは今日も相変わらず我侭自分勝手で トラブルを持ち込み僕を振り回し続けるわけで
先程から早くしろとお嬢さまが急かすので 申し訳ないが皆様とはもうここでお別れ

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夜道

夜、時刻は八時。見えない何かに急かされるようにわたしは飛び出した。

俯いたり、空を仰いだり、月の在り処を確認しながら気ままに歩き続ける。陸橋の上から見える新築マンションは、綺麗すぎてゲームのダンジョンみたいだ。地下道に響く足音が面白くてステップを軽く踏んでみる。すれ違う話し声にそっと耳を傾け会話の内容を想像する。

孤独と安らぎの中を行ったり来たりしながら、何者でもない自由なわたしは歩き続ける。高校生のわたし、娘のわたし、友達のわたし、すべてを夜が塗り潰した後で最後に残るものが知りたくて。

駅前は街灯と人ごみで溢れ、居酒屋では夜を楽しむ人々が赤ら顔で談笑している。裏路地はあんなに静かで夜が深いのに、ここではまだ夜は始まったばかり。

一人で歩く人はつまらなそうで、誰かと歩く人は楽し気で、そんな当たり前のことが不思議に思えてくる。

線路沿いを二駅ほど歩き続けると、小さなローカル線と交差する。踏切を何度も横断して行き止まりにぶつかる度に回り道をしながら単線の線路を辿って行く。立ち並ぶ住宅の裏を通る遊歩道、川が流れる公園、どこも人気がなく静かで、私に興味を示すことなく佇んでいる。

大きな家の窓際に並べられたぬいぐるみの影達が、こっそり噂話をしているのが聞こえてきそう。赤いレンガのおしゃれな家の前によく手入れされた花壇がある。一体どんな人が住んでいるのだろう? 日差しの下、綺麗な女性が花に水をあげる姿を想像してみる。わたしと関わることがないこの場所でも確かに人々が暮らしている。

列車から帰宅する学生や会社員が降りてくる。彼らとわたしの日常が交差することはないのだろうか? 学校のクラスメイトやバイトの同僚とは話せるのに、何故彼らに話しかけることは許されないのだろう? わたしと同じように友達や家族がいてそこでは笑いながら話しているはずなのに。

無数の線と点が広がる世界で、交差するのは僅かな一部分だけ。事故のように衝突した線が関係を築いていく。

わたしが突然話しかけ、事故を起こしたとしたら彼らはどうするだろう?戸惑い、不審に思い、迷惑がられるだろうか?少なくとも事故を故意に起こされていい気をする人はない。

重くなってきた足は、それでも前に進み続ける。もう、一時間ほどは歩いただろうか? 夜は深く濃く降りてくる。すれ違う人も減っていき、孤独に包まれ、わたしはわたしであったことを思い出す。

今は何時だろう? そろそろ帰らないと家族が心配するだろうか?明日の一時間目は何の授業だっただろう? 中間考査の勉強をそろそろしなくちゃ。そう言えば気になっている男の子を意識したきっかけはなんだったっけ? 疎遠になった友達と最後に交わした言葉は? 飛び飛びの思考はまとまりがなく、出した答えは曖昧で、一晩寝たらきっと役立たずになってしまうだろう。

自動販売機でカフェオレを買って飲む。甘さが心地良く疲れを少し洗い流す。終着駅の近くには河原があったはず。小さい頃、父が連れて来てくれたのを憶えている。あと二駅ほどだろうか? そこまで頑張って歩いてみよう。

人気がなくなり、風景は次第に寂しくなっていく。暗闇に対する恐怖が足を早くする。わたしの感覚では真夜中のように感じるのに時計を見てみたらまだ十時だった。家にいたらのんびりテレビでも見ているだろう。同じ時間なのにどうしてこんなに違うのか。夜はこんなにも静かなものだったのだ。

家から三時間歩き続けてたどり着いた終着駅は、幼い頃の記憶と変わらないままだった。駅の脇にある坂を登ればすぐ川に出れるはず。最後の力を振り絞り坂を登り切るとそこには一面の真っ暗闇が広がっていた。

広々とした河原には街灯は一つもなく、その先に流れているであろう水面も闇に覆われ確認することが出来ない。圧倒的な闇に体がすくみ、河原へ降りていくことも出来ない。街頭の明かりが、夜の本当の姿を誤魔化し隠してくれていたのだ。真実の夜は冷たく深く、どこまでも暗かった。

車が行き交う大きな橋だけがナイトパレードのように綺麗に浮かび上がっている。夜景を眺めながらゆっくりと橋を渡る。

橋の真ん中で足を止め風景を眺める。遠くに見える団地の明かりたちは取り残されたように寂しげだ。一つ向こうの橋を列車が渡る度に水面に影ができる。あの列車は何処に向かっているのだろう? 闇を切り裂き、夜景の中を走る列車は銀河鉄道のようで、そのまま夜の闇に溶けてしまいそう。その何もかもと無関係を決め込んで川は静かに流れ続ける。ここはわたしの知らない夜で満ちている。冷たくて綺麗な夜の闇と光。

「こんばんわ」

突然の声にびっくりしたわたしは、慌てて振り返り声の主を探す。

白いワンピースにベージュのカーディガンを羽織った車椅子の若い女性が長い髪を風に揺らしながら微笑んでいた。

「あなたもお散歩?」

「あ・・・・・・ はい。そうです」

戸惑いながらもどうにか質問に答える。

「風が気持ちいいね」

遠くを眺める彼女の横顔は本当に気持よさそうで、わたしは風を確かめるようにそっと瞳を閉じてみた。

「この川を流れる水は、やがてすべて海に流れる。それは何か奇跡みたいな、とても凄いことのように思えない?」

彼女の声はちょっと高く伸びやで耳に心地良い。

「分かるような気がします。どう凄いのかはうまく言えそうにないですけど」

「そうね。どうしてって聞かれたら、私も答えられる自信はないわ」

くすりと笑った後、彼女は河原を指さした。

「川沿いの道をひたすら歩き続けると、必ずいつか海にたどり着く。私達が今いるこの場所は確かに海に繋がっているのよ」

川の先、遠く遠くに目を凝らしてみる。わたしにはその先に川がどこまでも続いているように思えてしまう。

「でも歩いて行くには、何日も何日もかかるんじゃないですか?」

「そんなことない。ここから河口まで三十キロメートルくらい。休まず歩き続ければ七時間の距離よ」

朝から出発すれば夕方までには着く計算になる。そう考えると確かに思っていたよりも遠くはない。

「足が悪くなる前、幼い頃はね。私歩くのが大好きだったの」

彼女は笑顔で話してはいたけれど、わたしにはなんと答えればいいのか分からなかった。

「中学生の頃は学校が終わった後、毎日のように歩いていたわ。気ままに歩きたい方角に歩き続ける。自分の足でここまで来たんだ。そう思うと辛ければ辛いほど出会った何気ない景色に感動したわ。家に帰ったあと、地図を広げ歩いた距離を調べて、こんな遠いところまで行けたんだと誇らしい気持ちで一杯になった」

「いつもどれくらい歩いていたんですか?」

「二時間三時間は平気で歩いたわ。県境を初めて越えたときは本当に嬉しかった。友達に自慢して回ったくらい。そして、いつか海まで歩いて行くのが私の夢だった」

表情豊かに語るその姿は健康そのものに見えて、今にも車椅子から立ち上がり歩き出しそうだった。

「何故、海まで歩こうと思ったんですか?」

「海を自分のものにしたかったんだと思う。証明したかったのよ。わたしの家から海まで道は続いている。遠い遠い場所だけど確かに私の日常と繋がっていると。車や電車では駄目。一歩一歩、自分の足で確かめながら、体で実感して自分の手で証明したかったの」

そこで彼女は一旦言葉を切り俯いた。

「でもね。高校に入る頃には、歩くのをやめてしまった。結局、海にも行ってない。楽しいことは他にいくらでもあるもの。恋をして部活をして友達と遊んで、当たり前の学生生活だったけど特別な思い出がいっぱいある。後悔はしていないわ」

再び顔を上げた彼女は、切なそうな悔しそうな表情で想いを口にする。

「それでも、この場所に来ると幼い頃の記憶と感情が甦るの。海に行きたい。海まで歩いてみたい。足を悪くする前は、そんなこと忘れてしまっていたのにね・・・・・・」

自嘲気味に呟くその姿は、痛々しくて直視することが出来ず視線を遠くへと逸らす。

橋の上、いま目の前に広がる風景の先は海へと続いている。自分の足でそれを証明できたら、自分が居る場所の意味が違って見えるような気がした。この場所から海まで続く一本の線。その上にはどんな風景が広がっているのだろう? 河原のキャンプ場や運動場、通学や通勤する人たちを乗せた列車、家々の裏を通り、無数の道を横切りながら、見知らぬ誰かの暮らしの断片を拾い集め歩き続ける。きっと大勢の人とすれ違うに違いない。連続するいくつもの風景。その全てとわたしの日常を線で繋ぐのだ。

「わたし、今度ここから海まで歩いてみます。そして、ここに報告に来ます。この場所はちゃんと海まで続いていましたよって」

「本当に? 楽しみだなぁ。じゃあ一ヶ月後、この橋の上で会いましょうよ。同じ時間に私はここで待ってるから」

「はい。必ず会いに来ます!」

海まで歩くと決めた途端に気分が高揚してしまい、思わず大声で答えてしまう。

「でも、もし途中で断念して海にたどり着けなくても、ちゃんとここに来てよ? 待ちぼうけはいやだらね」

「はい。その時は反省会に付き合ってください」

おどけた調子で言う彼女にわたしも笑い返して軽口を叩く。

彼女には最後まで名前を聞かなかった。何故かそうすることが正しいことのように思えたから。

夜を歩く何者でもないわたしは何者かも分からない女性と出会い、海まで歩く誓いを立て再会の約束をした。分からないこと、見えないことは少し怖くて少し心地いい。

数えられるほどしか人の居ないガラガラのホームで電車を待つ。人気は少なくとも明るい場所はやっぱり落ち着く。電気の力は偉大だ。

二十分も待たされてようやく電車が来た。家まで電車で三十分。帰る頃には日付が変わってしまっているかもしれない。親になんて言い訳しよう。「何をしていたんだ?」 と聞かれても「散歩していました」とか言いようがない。

鳴り出した携帯電話が思考を中断する。着信画面には天祢みどり、少し懐かしい名前が表示されている。近頃疎遠になっていた中学の頃の同級生だ。この車両にはわたししか乗っていない。本当はマナー違反だけど許してもらおう。

「もしもし。久しぶりだね。元気にしてた?」

「うん。元気にやっているよ。突然でごめんね。ちょっと話したくて」

みどりの声は緊張のためか少し震えていた。

「何ヶ月ぶりだろうね。みどりずっと電話に出ないからみんな心配してたよ」

「まだ忘れないでいてくれたんだ。ありがとう。ごめんね。みんなのこと嫌いになったわけじゃないの。私、高校でうまくいってなくて、でもみんなは毎日楽しそうで、うまくやれない自分が情けなくて、恥ずかしくて、そのことを言い出せなくて」

「うん。そうだったんだ」

不器用にそれでも精一杯に伝えようとしてる。わたしは無言で続きを促した。

「私、三月に思い切って退学したんだ。最初は何もかもが終わってしまったような気分だった。外に出るのも怖くて家に引きこもってた。でもこれじゃ駄目だって、思い切って本屋でバイトを始めたの」

「みどりは前から本が好きだったもんね」

「うん。店員さんはみんな私よりもずっと本に詳しくて、色んなことを教えてくれるの。面白い本をたくさん紹介してもらった。それに毎日いろんな本が入って来るから働けば働くほど欲しい本が増えちゃう。給料の半分は本を買うので使っちゃうくらい」

「本当に本が好きなんだなぁ」

わたしは思わず笑ってしまった。

「二ヶ月くらい前からね。棚を一つ任されるようになったの。最初は不安で不安でしかたなかったけど、慣れてきたらすごく楽しくなって来た。自分が紹介文を書いた本が売れると凄く嬉しくて、責任もあるけど楽しいこともいっぱいある」

前髪が長くて伏目がちなみどりが、せっせと本屋で働く姿を想像して口元がほころぶ。

「わたしばっかこんなにしゃべっちゃってごめんね」

「いいよいいよ。気にしないで続けてよ」

人に気を使い過ぎる所は全く変わらないな。でもこんなに積極的にみどりが話すことは今まであまりなかった。

「ありがとう。わたし高校に行き続けてたらバイト先の人達とも出会えてなかったし、学校を辞めてから読んだ本とも出会えてなかった。だから学校を辞めて後悔はしてない。学校に行っても行かなくても同じように時間は過ぎていく。でも、だからといってこうやって過ごす時間は無駄じゃないと思う。もっと自由に生きていいんだ。自分の時間で生きていいんだって思うようになったの」

「羨ましいな」

わたしは心からそう思った。みどりは学校を辞めて自分を見つけたんだ。誰に決められたのでもない自分の時間の使い方を見つけたのだ。

「そんな風に言われるなんて思ってもみなかったよ」

「わたしはずっともやもやを抱えてた。何が不満で何がしたいのかも分からないから、今をうまく切り抜ける方法ばかり探してた。今日はそんな自分が嫌になって家を飛び出して来たの」

「え? 今何処にいるの? もしかして家出? なにか嫌なことがあったの?」

心配性な所も変わってない。

「何も無いよ。何かあったわけじゃないし、むしろ何も起こらないから嫌になったのかなぁ。いまは電車に乗って帰るところ。でもガラガラでわたし以外に誰も乗ってないから安心して、電話してても大丈夫」

「そうなんだ。あまり夜中に一人で出歩かない方がいいよ」

「うん。了解。そう言えば今日面白い人と出会ったんだ。歩くのが大好きな車椅子のお姉さん・・・・・・そうだ! 今度いっしょにピクニックをしようよ。恩田陸の小説みたいに夜のピクニックをしよう」

「夜通し歩き続けるあれ? 二人だけだとちょっと怖いな」

「なら明奈や遥も誘おう! 四人一緒なら大丈夫だって」

「それなら、いいかな。お母さんが許してくれるか心配だけど。それより車椅子のおねえさんが気になるんだけど」

「その話はピクニックの時にしよう。スタート地点と目的地はもう決まっているんだ」

「どこまで歩く気なの?」

「海までだよ! もうすぐ夏だからね。家から歩いて行って海をわたしたちのご近所にしてしまおう。歩いて行けたらそこはもうわたしたちの日常の一部よ」

「ははは。何それ。変な理屈」

電話越しに聞くみどりの笑い声はやっぱり中学生の頃と同じまま。それでも少しずつわたしたちは変わっていくのだろう。いくつもの夜を越えて、わたしたちは歩き続ける。

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クラスメイト5

 「衿沢さんおはよー」
 体全体を使い、元気に手を振る秋ちゃんに、衿沢さんはあくまで上品に小さく手を振り返した。真っ赤なマフラー、ネイビーで細めのロングコート、カーキのスキニーパンツに赤いブーツ。どれも一目見て高級なものだと分かる。衿沢さんはお嬢様なのだ。背筋を伸ばし、雪道を悠然と歩くその姿はちょっと雰囲気があり過ぎて逆に笑ってしまいそうになる。
 「おはよう。秋さん、由美さん。まさか雪が降り積もった早朝、こんな場所で知り合いに会うとは思わなかったわ」
 「私も驚きだよ。衿沢さんの家ってこのあたりじゃないよね?」
 そう。秋ちゃんの言うとおり、衿沢さんの家は確か井の頭線の下北沢とかあっちの方だったはずだ。
 「昨日は従姉妹の家に遊びに行って、そのまま泊まったのよ。凄い雪で、ダイヤも乱れていたしね」
 「従姉妹の家はこのあたりなんだ」
 「そう。このすぐ近く。なんだか早く目が覚めちゃってね。従姉妹を起こすのも悪いし散歩でもしようかと思って。私、雪が好きなのよ」
 大人びた印象の衿沢さんが雪が好きというのは意外な気がしたけど、ある意味ではすごく似合いそうな気もした。衿沢さんには風情があるのだ。
 「それで二人は犬の散歩? 毎朝の日課なの?」
 「わたしも早く目が覚めちゃって、散歩してたら偶然秋ちゃんと出会ったんだよ」
 「私は日課だよ。毎朝コロを連れて散歩してます」
 衿沢さんはしゃがみ込み、コロに目線を合わせると頭を優しくなでた。
 「コロちゃんて言うのか。小さくて可愛いわね」
 衿沢さんの上品な微笑み方は、大人っぽくてずるい。たまに同い年とは思えない時がある。
 「墓地って歩いているとすごく落ち着くのよね」
 立ち上がると唐突に話題を振る衿沢さん。しかし、意外な意見だ。日が昇る前の薄暗い墓地はやっぱり不気味だしちょっと怖い。
 「へー。なんでなんで?」
 秋ちゃんは興味津々と言った表情で説明を求める。わたしもどんな理由か気になる。
 「死者が眠る場所というのは、ネガティブなイメージも湧きやすいけれど、私達の生きる今を、私達の日常の礎を作った人たちが眠る場所と考えると違ったイメージが湧いてこない?」
 「うん。なるほど。確かにそういう風にも言えるよね」
 秋ちゃんが相槌を打つ。
 「お墓で眠るのは私達の先祖たち。かつて、同じようにこの地で暮らしていた人たちじゃない。そして、彼らの先に私達は立ってる。見えないけど絆みたいなものがあるような気がするのよ。だからきっと恐れる必要なんてないのよ。彼らの多くは私達を優しく見守ってくれているはずよ」
 「それは素敵な考えだなぁ。そもそも死者が眠る場所を怖がるなんて失礼だもんね。理由もなく彼らが私達に何かをしてくるなんて、そんなことあり得ないもんね。漠然としたイメージだけで怖がるのは良くないよね」
 秋ちゃんはぐるっと辺りを見回すと続けて呟く。
 「墓地は優しい場所だったんだねぇ」
 「そう。だからすごく落ち着くのよ」
 自分の考えが伝わって衿沢さんも嬉しそうだ。
 わたしも改めて墓地を見渡してみる。薄暗く多少怖くはあるけれど、暗闇の中に何かが潜んでいるような恐怖感はもはや感じなくなっていた。
 「それじゃあ、秋ちゃんのお父さんに会いに行こうか」
 「そうだね。雪に埋もれているであろうお父さんを助けに行こう」
 衿沢さんが少し間をおいたあとで口にする。
 「秋さんのお父さんのお墓参りに来たのね」
 「うん。実は私のお父さん、半年前に死んじゃったんだ」
 それを聞くと衿沢さんは一言「そう」とだけ呟いた。素っ気なくもなく、感じ入ったようでもなく、ただ、純然と事実を事実として確認しただけのような、そんな返事だった。
 「では秋さん由美さんまた学校で会いましょう」
 衿沢さんは別れの言葉もそこそこに、雪道の向こうへ消えていった。
 


 コロはお父さんのお墓の場所をしっかりと覚えているらしく、元気よくわたしたちを先導してくれた。雪をかき分けながらわたしたちは必死にコロを追いかける。
 「わたしちょっと衿沢さんって苦手なんだよね」
 「えっ?どうして?」
 わたしの突然の告白に驚く秋ちゃん。
 「苦手なだけで嫌いな分けじゃないよ。ただ、敵わないなって思うんだよね」
 「確かに衿沢さんは私達よりほんの少し上にいる気がする」
 「うん。上なんだけど大人ってのもなんか違くて、ただ、わたしたちには見えていないものが衿沢さんには見えているような気がする」
 「いつか由美も追いつけるといいね」
 「わたしは追いつきたいのかな? 違うような気もするけど…。いや認めたくないだけか」
 「由美ちゃんは由美ちゃんで見えているものがあるから大丈夫だよ」
 「だといいんだけどね」
 わたしは大人びたふりをしているだけの子供だ。実は秋ちゃんの方がずっと大人なのだ。
 


 「ここがお父さんのお墓です」
 霊園のちょうど真ん中の辺り、ほどほどの大きさのお墓が密集している所に西野井(いりのい)家の墓があった。
 「お父さん。今日は由美が来てくれたよ。死んじゃったこと、伝えるのが遅くなっちゃってごめんね」
 秋ちゃんは墓石の上に乗った雪を手袋を付けた手で払いながらお父さんに話しかけた。
 「お久しぶりです」
 頭を下げ一言だけ挨拶をして目をつぶりお祈りをした。
 目を開けると秋ちゃんも同じように手を合わせ祈っている。そっと閉じられた目、両端がちょっとだけ釣り上がった口元、優しくて可愛いその表情はすごく印象的で、わたしの瞼にはっきりと焼き付いた。
 「由美、来てくれてありがとうね」
 「いえいえ。お礼なんていらないよ。わたしが来たかったから来ただけ」
 「それなら良かった」
 東の空が赤く染まり始めた。そろそろ夜明けだ。紫の空に赤い太陽。木々に積もった雪が、オレンジ色に反射する。朝焼けに染まる墓地の風景はとても綺麗で、いつまでも眺めていたいそんな気にさせられた。そんな風に感じたのは衿沢さんの話を聞いた後だからだろうか。捉え方一つ心の持ちよう一つで、世界は瞬時に色を変える。心が豊かになれば世界は鮮やかな彩りへと変化するのかもしれない。そんなことをわたしは、思ったのだった。
 「それじゃあ帰ろうかな。由美はどうするの?」
 「わたしはもうちょっとぶらぶらしてみるよ」
 「了解。じゃあまた学校でね」
 「うん。学校で会おう。またね」
 秋ちゃんと別れたわたしは、朝焼けの空を楽しみながら再び宛もなく雪道を歩き始めたのだった。

続く

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