chip of wood

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

音楽

 明日、僕はsugar meのライブを観に行くのですが、よくよく考えてみたら、僕がしっかりとチケットを買って、純粋に音楽を聴くためだけにライブ会場へと足を運ぶのは初めてになります。
 僕は去年の終わり、人生で初めて音楽を好きになりました。音楽が好きだと素直に思えました。だから音楽を聴くために外に出ることになったのです。
 しかし、僕の人生は音楽がすべてではないし、音楽以外にも何かあった方が良いに決まっているし、音楽さえあれば生きていけるなんて思いません。
 でも、声が出せれば歌えるし、誰かに演奏してもらったり歌ってもらえば耳がある限り音楽が聞けるので、今後、そう、極端な話し、ホームレスになっても、戦争が起きて日本が焼け野原になったとしても音楽はそこにあるのでしょう。
 それは、いいことだなって思いました。
 
 僕は言葉と、音楽と、かわいいものが好きです。
 物語を作り出す言葉が、心に色を付けてくれる音楽が、かわいいから大好きです。

スポンサーサイト

PageTop

死んだ時に笑っていられるのは

 死んだ時に笑っていられるとしたら、それは自分が死んだあとの未来を信じているから。

PageTop

言いたくなったんだ

 ありがとうとか さようならとか 
 ちょっとね
 言いたくなったんだ

 いつかきっとね また会えるよね
 そんなことが 言いたくなったんだ

 並木道で 手を振る君
 ベンチに座り うたたねする君

 便りが届くのが 楽しみだね

PageTop

 いままで生きてきて一度だって本当のことは無かった。
 一度足りとも正解などなく、一度足りとも失敗してない。
 過ちなど犯していないし、何も成果をあげてもいない。
 誰にだって許される必要はなく、誰を許す必要もない。
 
 何かに共感することもなく、何かを喪失することもなく。
 何を否定したこともなく、何かを受け入れたこともない。
 自分の感情を理解したこともなく、そもそもそれはない。
 何かになったことなど一度もない、これからも訪れない。
 
 ただ、言葉がここにあるから何かあるように思えるだけだ。
 しかし、言葉は確かにここにある。ここにある。

PageTop

 わたしが空へと解けていくひかりを見たのは一度きり
 あお、みどり、しろ、ちゃいろ、おれんじ、くろ、他になにがあっただろうか?いろとりどりのひかりたちがあって、それはなにかでつながっていたんだけど、ふいにほどけた。
 ばらばらになったひかりは混ざり合い、その色は、絵筆を洗うバケツの中の色。―この世の色だときっと黒に近い。でもそれは、きっと黒ではない。はじめからある黒ではなく...。黒く見えるようになった’’イロ’’だ―
 そして、一筋のひかりになって―それは厳密には光ではない、ただ物質ではないが目に見えるものだという意味で光に近い―空へと飛んでいった。翔んでいった?落ちていった?帰っていったのだろうか?

 ひかりたちはつながりがなくなってしまい、この場所での意味を失った。だから、きっと、違う場所へと去っていった。でもほどけてまた一つになるその直前、その欠片?なのだろうか。いくつか光る粒が、それは―それは紛れも無く光だ―空気の中に浮いて、溶けた。
 だからわたしは、きっと、おばあちゃんのことを思い出せるのだ。ほとんど去ってしまったけど、こぼれ落ちた僅かな何かが、まだこの場所にあって、だからまだ、思い出すことができるのだ。


 絵筆をかき混ぜたバケツの中。覗いてみる。濁りきって汚いと人は言うだろうか?でも人は死ぬとこれになる。これをわたしは、そう、美しいとは言えないかもしれないけど、好きなのかもしれない。でも、ほんとうは好きではないのかもしれない。ただ忘れられないのだ。忘れたくないのだ。

PageTop

皆さんはいかがお過ごしでしょうか?

 「できれば多くの人に読んでもらいたいな。でも誰も読んではくれないのだろうな」
 僕はこのブログをそんな風に思って書いていました。でも、ほんの数人ですが「ブログ読んだよ」と言ってくれる人がいて、確かに僕の文章は誰かに読まれているのだと知りました。
 きっと、顔を突き合わせ目を見て話せば僕の言葉を聞いてくれる人はいるでしょう。僕と誰か、その二人がその場にいる時、基本的には僕以外は言葉を発しないのだから。
 しかし、ここには多くの言葉であふれています。絵もあり、音楽もあり、動画もあります。双方向でのコミュニケーションだって可能です。そんな中で僕の文章を読んでもらえるということは、なんでしょうね...。よく分かりません。でも純粋にそれはとても嬉しいことだと僕は感じます。

 あけましておめでとうございます。皆さんはいかがお過ごしでしょうか?お餅は食べましたか?どんな初夢を見ましたか?お年玉をもらいましたか?お年玉をあげましたか?
 お年玉をもらうこともあげることもないというのはなんだかちょっと寂しいですね。
 もう、僕はお年玉をもらう年ではないので、来年は誰かにお年玉をあげられればなと思います。
 年明けなのにもう来年の話をしてしまいました。気が早いですね。
 今年の話をしますと、特に予定はこれといってないのですが、変わりたいなと思っています。どう変わりたいかなんてそんなの言葉に出来ないしするつもりもないのですが、ただ、目に写るもの、鼻から吸い込むもの、耳が捉えるもの、手が触れるもの、足が踏みしめるもの、肌が感じる熱と冷気、そういったものが変われば、自ずと思考が変わり、心が変わるのでしょう。そして、心が変われば、体が変わり、変わった体はいままでと違う方向へ向かって一歩を踏み出すのでしょう。

 春が来る。夏がくる。秋が来る。また冬が来る。時を刻みながら繰り返し巡り続けるというのはすごいことです。また来年僕は「あけましておめでとうございます」と誰かに言うのです。僕の母も、きっと50回は言ってきたし、顔も覚えていないおじいさんもきっと50回は言っているでしょう。
 千年も昔のこの場所、武蔵の国の片隅、三鷹という名前が付く前のこの地にも、もしかしたら小さな村があってご近所で「あけましておめでとうございます」と言い合っていたのかもしれません。西側にある国々でそれは「A HAPPY NEW YEAR」と言うことはきっと彼らは知らないでしょう。でも日本人の誰もがそれを知らなくても、西洋の国々では千年前も新年を祝っていたのです。
 そして、僕がいま聴いているJoy Williamsの祖先もきっとそうでしょう。彼女はアメリカ人だけど、祖先はヨーロッパにいただろうから、ユーラシア大陸の西の方で誰かに「A HAPPY NEW YEAR」と言っていたのでしょう。
 彼らの誰が想像したでしょう。
 自分が暮らすこの地に、異国の全く違う言語の音楽が流れることを。
 誰も想像できないでしょう。
 自分の子孫が海を渡り未知の大陸で根を下ろし、やがてその一人が歌を作り、その歌がまた海を渡り、大陸の東の端、そのさらに東にある島国で聴かれることを。
 いま、僕達の目の前にある当たり前はきっと奇跡みたいなもので、でも、その奇跡を喜ぶすべが僕には僕達には分からなくなってしまったんです。
 

PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。