chip of wood

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夜道

夜、時刻は八時。見えない何かに急かされるようにわたしは飛び出した。

俯いたり、空を仰いだり、月の在り処を確認しながら気ままに歩き続ける。陸橋の上から見える新築マンションは、綺麗すぎてゲームのダンジョンみたいだ。地下道に響く足音が面白くてステップを軽く踏んでみる。すれ違う話し声にそっと耳を傾け会話の内容を想像する。

孤独と安らぎの中を行ったり来たりしながら、何者でもない自由なわたしは歩き続ける。高校生のわたし、娘のわたし、友達のわたし、すべてを夜が塗り潰した後で最後に残るものが知りたくて。

駅前は街灯と人ごみで溢れ、居酒屋では夜を楽しむ人々が赤ら顔で談笑している。裏路地はあんなに静かで夜が深いのに、ここではまだ夜は始まったばかり。

一人で歩く人はつまらなそうで、誰かと歩く人は楽し気で、そんな当たり前のことが不思議に思えてくる。

線路沿いを二駅ほど歩き続けると、小さなローカル線と交差する。踏切を何度も横断して行き止まりにぶつかる度に回り道をしながら単線の線路を辿って行く。立ち並ぶ住宅の裏を通る遊歩道、川が流れる公園、どこも人気がなく静かで、私に興味を示すことなく佇んでいる。

大きな家の窓際に並べられたぬいぐるみの影達が、こっそり噂話をしているのが聞こえてきそう。赤いレンガのおしゃれな家の前によく手入れされた花壇がある。一体どんな人が住んでいるのだろう? 日差しの下、綺麗な女性が花に水をあげる姿を想像してみる。わたしと関わることがないこの場所でも確かに人々が暮らしている。

列車から帰宅する学生や会社員が降りてくる。彼らとわたしの日常が交差することはないのだろうか? 学校のクラスメイトやバイトの同僚とは話せるのに、何故彼らに話しかけることは許されないのだろう? わたしと同じように友達や家族がいてそこでは笑いながら話しているはずなのに。

無数の線と点が広がる世界で、交差するのは僅かな一部分だけ。事故のように衝突した線が関係を築いていく。

わたしが突然話しかけ、事故を起こしたとしたら彼らはどうするだろう?戸惑い、不審に思い、迷惑がられるだろうか?少なくとも事故を故意に起こされていい気をする人はない。

重くなってきた足は、それでも前に進み続ける。もう、一時間ほどは歩いただろうか? 夜は深く濃く降りてくる。すれ違う人も減っていき、孤独に包まれ、わたしはわたしであったことを思い出す。

今は何時だろう? そろそろ帰らないと家族が心配するだろうか?明日の一時間目は何の授業だっただろう? 中間考査の勉強をそろそろしなくちゃ。そう言えば気になっている男の子を意識したきっかけはなんだったっけ? 疎遠になった友達と最後に交わした言葉は? 飛び飛びの思考はまとまりがなく、出した答えは曖昧で、一晩寝たらきっと役立たずになってしまうだろう。

自動販売機でカフェオレを買って飲む。甘さが心地良く疲れを少し洗い流す。終着駅の近くには河原があったはず。小さい頃、父が連れて来てくれたのを憶えている。あと二駅ほどだろうか? そこまで頑張って歩いてみよう。

人気がなくなり、風景は次第に寂しくなっていく。暗闇に対する恐怖が足を早くする。わたしの感覚では真夜中のように感じるのに時計を見てみたらまだ十時だった。家にいたらのんびりテレビでも見ているだろう。同じ時間なのにどうしてこんなに違うのか。夜はこんなにも静かなものだったのだ。

家から三時間歩き続けてたどり着いた終着駅は、幼い頃の記憶と変わらないままだった。駅の脇にある坂を登ればすぐ川に出れるはず。最後の力を振り絞り坂を登り切るとそこには一面の真っ暗闇が広がっていた。

広々とした河原には街灯は一つもなく、その先に流れているであろう水面も闇に覆われ確認することが出来ない。圧倒的な闇に体がすくみ、河原へ降りていくことも出来ない。街頭の明かりが、夜の本当の姿を誤魔化し隠してくれていたのだ。真実の夜は冷たく深く、どこまでも暗かった。

車が行き交う大きな橋だけがナイトパレードのように綺麗に浮かび上がっている。夜景を眺めながらゆっくりと橋を渡る。

橋の真ん中で足を止め風景を眺める。遠くに見える団地の明かりたちは取り残されたように寂しげだ。一つ向こうの橋を列車が渡る度に水面に影ができる。あの列車は何処に向かっているのだろう? 闇を切り裂き、夜景の中を走る列車は銀河鉄道のようで、そのまま夜の闇に溶けてしまいそう。その何もかもと無関係を決め込んで川は静かに流れ続ける。ここはわたしの知らない夜で満ちている。冷たくて綺麗な夜の闇と光。

「こんばんわ」

突然の声にびっくりしたわたしは、慌てて振り返り声の主を探す。

白いワンピースにベージュのカーディガンを羽織った車椅子の若い女性が長い髪を風に揺らしながら微笑んでいた。

「あなたもお散歩?」

「あ・・・・・・ はい。そうです」

戸惑いながらもどうにか質問に答える。

「風が気持ちいいね」

遠くを眺める彼女の横顔は本当に気持よさそうで、わたしは風を確かめるようにそっと瞳を閉じてみた。

「この川を流れる水は、やがてすべて海に流れる。それは何か奇跡みたいな、とても凄いことのように思えない?」

彼女の声はちょっと高く伸びやで耳に心地良い。

「分かるような気がします。どう凄いのかはうまく言えそうにないですけど」

「そうね。どうしてって聞かれたら、私も答えられる自信はないわ」

くすりと笑った後、彼女は河原を指さした。

「川沿いの道をひたすら歩き続けると、必ずいつか海にたどり着く。私達が今いるこの場所は確かに海に繋がっているのよ」

川の先、遠く遠くに目を凝らしてみる。わたしにはその先に川がどこまでも続いているように思えてしまう。

「でも歩いて行くには、何日も何日もかかるんじゃないですか?」

「そんなことない。ここから河口まで三十キロメートルくらい。休まず歩き続ければ七時間の距離よ」

朝から出発すれば夕方までには着く計算になる。そう考えると確かに思っていたよりも遠くはない。

「足が悪くなる前、幼い頃はね。私歩くのが大好きだったの」

彼女は笑顔で話してはいたけれど、わたしにはなんと答えればいいのか分からなかった。

「中学生の頃は学校が終わった後、毎日のように歩いていたわ。気ままに歩きたい方角に歩き続ける。自分の足でここまで来たんだ。そう思うと辛ければ辛いほど出会った何気ない景色に感動したわ。家に帰ったあと、地図を広げ歩いた距離を調べて、こんな遠いところまで行けたんだと誇らしい気持ちで一杯になった」

「いつもどれくらい歩いていたんですか?」

「二時間三時間は平気で歩いたわ。県境を初めて越えたときは本当に嬉しかった。友達に自慢して回ったくらい。そして、いつか海まで歩いて行くのが私の夢だった」

表情豊かに語るその姿は健康そのものに見えて、今にも車椅子から立ち上がり歩き出しそうだった。

「何故、海まで歩こうと思ったんですか?」

「海を自分のものにしたかったんだと思う。証明したかったのよ。わたしの家から海まで道は続いている。遠い遠い場所だけど確かに私の日常と繋がっていると。車や電車では駄目。一歩一歩、自分の足で確かめながら、体で実感して自分の手で証明したかったの」

そこで彼女は一旦言葉を切り俯いた。

「でもね。高校に入る頃には、歩くのをやめてしまった。結局、海にも行ってない。楽しいことは他にいくらでもあるもの。恋をして部活をして友達と遊んで、当たり前の学生生活だったけど特別な思い出がいっぱいある。後悔はしていないわ」

再び顔を上げた彼女は、切なそうな悔しそうな表情で想いを口にする。

「それでも、この場所に来ると幼い頃の記憶と感情が甦るの。海に行きたい。海まで歩いてみたい。足を悪くする前は、そんなこと忘れてしまっていたのにね・・・・・・」

自嘲気味に呟くその姿は、痛々しくて直視することが出来ず視線を遠くへと逸らす。

橋の上、いま目の前に広がる風景の先は海へと続いている。自分の足でそれを証明できたら、自分が居る場所の意味が違って見えるような気がした。この場所から海まで続く一本の線。その上にはどんな風景が広がっているのだろう? 河原のキャンプ場や運動場、通学や通勤する人たちを乗せた列車、家々の裏を通り、無数の道を横切りながら、見知らぬ誰かの暮らしの断片を拾い集め歩き続ける。きっと大勢の人とすれ違うに違いない。連続するいくつもの風景。その全てとわたしの日常を線で繋ぐのだ。

「わたし、今度ここから海まで歩いてみます。そして、ここに報告に来ます。この場所はちゃんと海まで続いていましたよって」

「本当に? 楽しみだなぁ。じゃあ一ヶ月後、この橋の上で会いましょうよ。同じ時間に私はここで待ってるから」

「はい。必ず会いに来ます!」

海まで歩くと決めた途端に気分が高揚してしまい、思わず大声で答えてしまう。

「でも、もし途中で断念して海にたどり着けなくても、ちゃんとここに来てよ? 待ちぼうけはいやだらね」

「はい。その時は反省会に付き合ってください」

おどけた調子で言う彼女にわたしも笑い返して軽口を叩く。

彼女には最後まで名前を聞かなかった。何故かそうすることが正しいことのように思えたから。

夜を歩く何者でもないわたしは何者かも分からない女性と出会い、海まで歩く誓いを立て再会の約束をした。分からないこと、見えないことは少し怖くて少し心地いい。

数えられるほどしか人の居ないガラガラのホームで電車を待つ。人気は少なくとも明るい場所はやっぱり落ち着く。電気の力は偉大だ。

二十分も待たされてようやく電車が来た。家まで電車で三十分。帰る頃には日付が変わってしまっているかもしれない。親になんて言い訳しよう。「何をしていたんだ?」 と聞かれても「散歩していました」とか言いようがない。

鳴り出した携帯電話が思考を中断する。着信画面には天祢みどり、少し懐かしい名前が表示されている。近頃疎遠になっていた中学の頃の同級生だ。この車両にはわたししか乗っていない。本当はマナー違反だけど許してもらおう。

「もしもし。久しぶりだね。元気にしてた?」

「うん。元気にやっているよ。突然でごめんね。ちょっと話したくて」

みどりの声は緊張のためか少し震えていた。

「何ヶ月ぶりだろうね。みどりずっと電話に出ないからみんな心配してたよ」

「まだ忘れないでいてくれたんだ。ありがとう。ごめんね。みんなのこと嫌いになったわけじゃないの。私、高校でうまくいってなくて、でもみんなは毎日楽しそうで、うまくやれない自分が情けなくて、恥ずかしくて、そのことを言い出せなくて」

「うん。そうだったんだ」

不器用にそれでも精一杯に伝えようとしてる。わたしは無言で続きを促した。

「私、三月に思い切って退学したんだ。最初は何もかもが終わってしまったような気分だった。外に出るのも怖くて家に引きこもってた。でもこれじゃ駄目だって、思い切って本屋でバイトを始めたの」

「みどりは前から本が好きだったもんね」

「うん。店員さんはみんな私よりもずっと本に詳しくて、色んなことを教えてくれるの。面白い本をたくさん紹介してもらった。それに毎日いろんな本が入って来るから働けば働くほど欲しい本が増えちゃう。給料の半分は本を買うので使っちゃうくらい」

「本当に本が好きなんだなぁ」

わたしは思わず笑ってしまった。

「二ヶ月くらい前からね。棚を一つ任されるようになったの。最初は不安で不安でしかたなかったけど、慣れてきたらすごく楽しくなって来た。自分が紹介文を書いた本が売れると凄く嬉しくて、責任もあるけど楽しいこともいっぱいある」

前髪が長くて伏目がちなみどりが、せっせと本屋で働く姿を想像して口元がほころぶ。

「わたしばっかこんなにしゃべっちゃってごめんね」

「いいよいいよ。気にしないで続けてよ」

人に気を使い過ぎる所は全く変わらないな。でもこんなに積極的にみどりが話すことは今まであまりなかった。

「ありがとう。わたし高校に行き続けてたらバイト先の人達とも出会えてなかったし、学校を辞めてから読んだ本とも出会えてなかった。だから学校を辞めて後悔はしてない。学校に行っても行かなくても同じように時間は過ぎていく。でも、だからといってこうやって過ごす時間は無駄じゃないと思う。もっと自由に生きていいんだ。自分の時間で生きていいんだって思うようになったの」

「羨ましいな」

わたしは心からそう思った。みどりは学校を辞めて自分を見つけたんだ。誰に決められたのでもない自分の時間の使い方を見つけたのだ。

「そんな風に言われるなんて思ってもみなかったよ」

「わたしはずっともやもやを抱えてた。何が不満で何がしたいのかも分からないから、今をうまく切り抜ける方法ばかり探してた。今日はそんな自分が嫌になって家を飛び出して来たの」

「え? 今何処にいるの? もしかして家出? なにか嫌なことがあったの?」

心配性な所も変わってない。

「何も無いよ。何かあったわけじゃないし、むしろ何も起こらないから嫌になったのかなぁ。いまは電車に乗って帰るところ。でもガラガラでわたし以外に誰も乗ってないから安心して、電話してても大丈夫」

「そうなんだ。あまり夜中に一人で出歩かない方がいいよ」

「うん。了解。そう言えば今日面白い人と出会ったんだ。歩くのが大好きな車椅子のお姉さん・・・・・・そうだ! 今度いっしょにピクニックをしようよ。恩田陸の小説みたいに夜のピクニックをしよう」

「夜通し歩き続けるあれ? 二人だけだとちょっと怖いな」

「なら明奈や遥も誘おう! 四人一緒なら大丈夫だって」

「それなら、いいかな。お母さんが許してくれるか心配だけど。それより車椅子のおねえさんが気になるんだけど」

「その話はピクニックの時にしよう。スタート地点と目的地はもう決まっているんだ」

「どこまで歩く気なの?」

「海までだよ! もうすぐ夏だからね。家から歩いて行って海をわたしたちのご近所にしてしまおう。歩いて行けたらそこはもうわたしたちの日常の一部よ」

「ははは。何それ。変な理屈」

電話越しに聞くみどりの笑い声はやっぱり中学生の頃と同じまま。それでも少しずつわたしたちは変わっていくのだろう。いくつもの夜を越えて、わたしたちは歩き続ける。
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